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平等寺の歴史

平等寺は弘仁5年(814年)弘法大師空海によって開創された寺院。現在は四国八十八ヶ所霊場第二十二番札所として世界中から巡礼者をお迎えしています。 本尊は薬師如来。あらゆる人々のこころとからだの病を平等に癒やす仏さまとして親しまれています。

このページではこれまでの平等寺のあゆみをご紹介いたします。

弘法大師御作の薬師如来坐像(室町〜江戸初期の間に修繕)

平等寺の開創縁起

平等寺は弘仁5年(814)に弘法大師空海がお開きになった寺院です。

空海は同年に四国を巡錫し始め、四国の右下・徳島県阿南市新野町に到着します。そこで清らかな水を求めて井戸を掘ったところ乳白色の水が涌いたことから、この地が密教の修行に適した地であると感じられたお大師さまは、しばし歩みを止められこの新野町に滞在なされました。

ある時めい想にふけっていると、五色の光と共に空中に梵字が現れ、梵字は次第に姿を変えて薬師如来となったと伝わります。そのお姿をお手本とし、一刀三礼して木に刻んだのが、弘法大師御作の平等寺本尊、本尊薬師です。

お大師さまは彫刻した仏さまを本尊として安置し、この薬師如来の功徳によって「人々の苦しみを平等に癒やし去る」と誓いを立て、百日間の護摩行を行い、翌年(弘仁6年・815年)になって四国巡錫を再開されました。

平等寺の名称について

寺号:平等寺
(びょうどうじ)

大師が立てた誓い「人々の苦しみを平等に癒やし去る」から二字をとって、寺号を「平等寺」と定められました。

山号:白水山
(はくすいざん)

清らかな水を求めて掘られた井戸は、現在も万病に効くといわれる「弘法の霊水」が涌いておりますが、当初は乳白色の水が湧き出ていたため、白い水が湧く山として、「白水山(はくすいざん)」と名付けられました。

院号:二通り

平等寺には「醫王院(いおういん)」と「日光院(にっこういん)」という2つの院号があります。明治期までは主に「日光院」が用いられていました。江戸時代の文献や納経帳などには「日光院」として登場します。

院号:日光院
(にっこういん)

「日光院」は、持仏堂の本尊・十一面観世音菩薩の眉間から日光の如くの光が放たれていたからと伝わります。

この十一面観世音菩薩立像は平等寺が蔵する仏像の中では最も古いものとされ、弘法大師御修行のみぎりには既に奉安されていたと伝わります。

院号:醫王院
(いおういん)

「醫王院」は、本尊薬師如来の別名、醫王善逝(いおうぜんぜい)から取っています。

如来(tathagata)とは「かくの如く(こちら側に)やってきたもの」という意味で、悟りの世界から我々の世界にお越しくださることを表すお名前です。

善逝(sugata)は「みごとに(あちらの世界に)いったもの」という意味で、我々の世界から悟りの世界へ入られたことを表す名前です。

お薬師さまは、如来としては「薬師如来」、善逝としては「醫王善逝」と呼ばれています。

開創以降の歩み
南北朝期

南北朝の頃、平等寺の住職は熊野先達として多くの人々と共に熊野詣を行っていた記録が『熊野那智大社文書』に残っています。

延野の『大般若経』

新野町から北に山1つ越えると丹生谷という地域にでます。その中の延野にある大宮八幡神社には南北朝期の『大般若経』六百巻が現存しており、寄進者の名前に「阿良多野成信」の名が見えます。「阿良多野」とは昔の新野町の表記で、「荒田野」とも書きます。「阿良多野成信」が何者かは不明ですが、その頃すでに多くの人が新野町に住んでいたことが分かります。

戦乱期

室町の末になりますと日本中が戦乱に巻き込まれ、平等寺の在する新野町においても天正五年(1577)、荒田野口(今の音坊山付近)において布陣した阿波細川家最後の当主細川真之が三好長治と争いました。

平等寺も何らかの戦火に巻き込まれたのか、当時は山岳寺院の様相であったと伝わりますが、それらは全て今はありません。かつて山門が建っていたとされる地は堂床(どうしょう)、大師が護摩修行を行った地は護摩ヶ谷(今の護摩堂)、塔が建っていた地は塔ヶ峰(今の愛宕神社付近)、池の跡地は蓮池(はすいけ)と呼ばれ、地元の人だけが知る地名としてその面影を残しております。

旧本堂の跡地とされる場所は、新野町重友地区の八坂神社(祗園牛頭天王社)になっています。

江戸期

伽藍再建期
1680年〜1770年頃

1680年、愛媛の西山興隆寺から一人の僧と二人の付き人が当寺を訪れます。平等寺の中興一世、照俊(しょうしゅん)阿闍梨と河野・槙野の両名です。

照俊阿闍梨は興廃していた平等寺の様子をみて、当時の住職と共に伽藍復興に取りかかりました。最初に鐘楼門を建立し、次に本堂を建立しはじめます。

照俊師は1720年に示寂されますが、その遺言に従った中興二世槐翁(かいおう)の代、1722年に本堂が落慶。1737年には中興三世慧燈(けいとう)が薬師堂を建立。本尊薬師如来の遷座式を厳修いたしました。方丈、本坊なども慧燈の代に揃い、照俊・槐翁が建立した本堂は弘法大師御影堂として、薬師堂は本堂して再営されることとなりました。

平等寺に現存する本堂は、中興三世慧燈が1737年に建立したこの薬師堂で、およそ280年の歴史があります。

最盛期
1770年〜1820年

大師堂横には護摩堂が建立され、様々な行事が行われるようになりました。例えば、千日千坐の護摩行や流水灌頂、本尊ご開帳などです。

また「白水精舎」という名で版木を製作し、四国遍路のガイドブックなどを版本として出版していました。

混乱期
大師堂の再建
1820年〜1860年

1800年代初頭、中興一世照俊阿闍梨と二世槐翁が建立した旧本堂(大師堂)およびその横の護摩堂は、失火により延焼しました。そこで新たに大師堂を建立する機運が高まり、1822年に建設開始、1824年に落成しました。現存する大師堂はこの時のもので、200年ほど前の建物になります。

大師堂内には日本でも珍しい弘法大師十大弟子の木像(寄木造り、胡粉地彩色仕上げ)が残っており、天井絵も当時のまま保存されています。

残念ながら一時住職が不在の時期もありましたが、高野山からやってきた儀陶上綱は、大師堂の大壇や仏具類を新調し、現在もそのまま用いられています。

明治以降

明治
西宥賢の時代
1860年〜1900年

明治維新が起きる直前、白水山の山中に「写し霊場」を建立する機運が高まり、近隣の檀信徒が私財をなげうって「新四国八十八ヶ所霊場」が建立されました。一周1時間ほどのトレッキングにちょうどよい距離・高低差の霊場です。

当時住職だった西宥賢僧正は寺の前の桑野川にかかる平等寺橋を修繕し、十王堂も再建。多くの事業を為して遷化されました。海部郡浅川出身の人でした。

大正〜戦後
谷口津梁の時代
1907年〜1969年

徳島県阿南市長生町出身の谷口津梁師は、二十一番札所太龍寺で修行の後、多くの寺院を兼務しながら二十二番札所平等寺の住職に就きました。すると、大正10年(1921)に初めての外国人遍路、アメリカ・シカゴ大学の文化人類学者フレデリック・スタール博士が来寺。交流を深められ、博士直筆の書が今に残されています。

大正12年(1923)には高知県地蔵寺村の筒井林之助氏(当時33歳)が父副次(当時56歳)と共に来寺。箱車を奉納していきました。

昭和7年(1932)には地元關山氏を大工として山門を再建。戦後には、供出され無くなっていた鐘楼を新調、鐘楼堂を建立しました。

津梁僧正以降
1970-現在

この頃になると中興三世慧燈が建設した方丈・本坊の痛みが激しくなってきます。四国の遍路者の数が大幅に増加したこともあって、平成2年(1990)、「平成の大修理」として諸堂修繕の他、納経所やお手洗いなどを造営しました。

平成27年(2015)には本堂(旧薬師堂)の内陣を修繕し、長らく秘仏であって薬師如来坐像をご開帳。途絶えていた本尊初会式も平成28年(2016)1月16日に再興し、平成29年(2017)・30年(2018)には本堂内陣に新設した護摩壇において焼八千枚供を2度厳修いたしました。

未来へ

今後は本堂外陣の修繕、本堂で奉安されていた八祖大師像修繕、大師堂修繕、大師堂の弘法大師像修繕、弘法大師十代弟子像修繕、十王堂諸尊像修繕など、多くの修繕作業が控えております。

「弘法大師御生誕1250年」を迎える2023年を最初の区切りとして大師堂修繕を行い、2037年の「弘法大師御入定1200年御遠忌」にはこれらの諸尊像修繕が終わることを目標に、現在取り組みを進めております。

また、室町期までは山上に塔が建っていたことから、木造の宝篋印塔を建立すべく、所々にお願いしておる次第です。

このような格好で、弘法大師空海ご開創のみぎりより未来に到るまで、大師のご誓願「人々の苦しみを除きさること平等不偏なることぞ」を叶えるため諸々の事業を続けております。

引き続きのご支援をよろしくお願い申し上げます。

合 掌